小説「ヒーズールの夜明け」に登場する村・・・ そのむらおさの独り言?!
天国というのは死後の世界で、善行を行って死んだ後行ける世界と称される。 当然、立証されている世界では無く、どちらかというと宗教屋に耳打ちされる詐欺行為に都合のよい架空世界だ。
一方理想郷とは、主に何処にあるのか解らないまでもあって欲しい現実世界ではなかろうか。
若かりし頃、「天国に一番近い島」 森村 桂さんだったと思うが、読んだことがある。 ニューカレドニア島のことだっただろう。 あの辺は釣り番組でも魅力的な地域だ。 一つの理想郷とも言える場所だろうか。
しかし、宝くじでも当たらない限り訪れることも無いだろう。
さて、理想郷や天国、どんなところだったら良いのか、きっと千差万別なのだろう。 或いは意外や意外、殆ど違いが無かったりして・・・。
結構昔、子供が小さかった頃の後半、比較的近い場所に厚生年金関連施設があって、そこに県内有数の流水プールやウォーターシュート(滑り台)があった。 いろいろあったため今や誰の所有になったのかさえ解らない場所になってしまった。
その夏そこへ出かけて、ウレタンかなんかの板を借りて、流水プールで板に上半身を預けながらだらだら流されていた時、明るく強い日差し・水の音・判別のつかないガヤガヤした人達の声を聞きながら、「こんな感じが天国なら、死ぬのも悪くない」、そう思ったことを記憶している。 かなり快適だったのだろう。
待ち焦がれた春が訪れ、例年の通り山菜採り行を楽しんだ。 今日までに7回出かけ、例年通りの収穫を得た。
主だった場所として4ヶ所に分類されるが、各々の場所に車で到達しエンジンを切って車を降りる。 そして車から降りると必ず聞こえる鳥の声。 当然、住まいする地域では聴くことの出来ない鳥の声である。
そして殆どの場所では、それに水の流れる音が加わる。 また時として、風が木々を揺らす音。 青い空の背景も多い。
こういった風景に包まれる世界も、私にとっては天国だ。 私より年配の方と同行した時にその話をしたら、勘違いをしたのか「死ぬなんて話は・・・」といったニュアンスの言葉を言われた。
別に自殺するつもりなど、少なくとも現在は殆ど無い。 だが、子育てをある程度終了し、特に不安が強い訳でもないが取り立てて希望も無い余生に対し、もし天国がこのような世界だったら・・・という考えがふと沸くようでは、私の厭世気分も相当なものだと、あらためて感じた。
何のために生き、何のために死すか、天国はどんなところだったら死を許容できるのか。 世界でも際立って宗教色の少ないこの国で、みんなはどう考えているのだろうか。 興味が無いわけでもない・・・。
まだ春の山菜行は、タケノコ・ミズが目標値に達していない。 その間生きていたら「生き天国」(生き地獄という言葉があるのに何で無いか)を味わうチャンスが、今年まだ数回はあるだろう。
一方理想郷とは、主に何処にあるのか解らないまでもあって欲しい現実世界ではなかろうか。
若かりし頃、「天国に一番近い島」 森村 桂さんだったと思うが、読んだことがある。 ニューカレドニア島のことだっただろう。 あの辺は釣り番組でも魅力的な地域だ。 一つの理想郷とも言える場所だろうか。
しかし、宝くじでも当たらない限り訪れることも無いだろう。
さて、理想郷や天国、どんなところだったら良いのか、きっと千差万別なのだろう。 或いは意外や意外、殆ど違いが無かったりして・・・。
結構昔、子供が小さかった頃の後半、比較的近い場所に厚生年金関連施設があって、そこに県内有数の流水プールやウォーターシュート(滑り台)があった。 いろいろあったため今や誰の所有になったのかさえ解らない場所になってしまった。
その夏そこへ出かけて、ウレタンかなんかの板を借りて、流水プールで板に上半身を預けながらだらだら流されていた時、明るく強い日差し・水の音・判別のつかないガヤガヤした人達の声を聞きながら、「こんな感じが天国なら、死ぬのも悪くない」、そう思ったことを記憶している。 かなり快適だったのだろう。
待ち焦がれた春が訪れ、例年の通り山菜採り行を楽しんだ。 今日までに7回出かけ、例年通りの収穫を得た。
主だった場所として4ヶ所に分類されるが、各々の場所に車で到達しエンジンを切って車を降りる。 そして車から降りると必ず聞こえる鳥の声。 当然、住まいする地域では聴くことの出来ない鳥の声である。
そして殆どの場所では、それに水の流れる音が加わる。 また時として、風が木々を揺らす音。 青い空の背景も多い。
こういった風景に包まれる世界も、私にとっては天国だ。 私より年配の方と同行した時にその話をしたら、勘違いをしたのか「死ぬなんて話は・・・」といったニュアンスの言葉を言われた。
別に自殺するつもりなど、少なくとも現在は殆ど無い。 だが、子育てをある程度終了し、特に不安が強い訳でもないが取り立てて希望も無い余生に対し、もし天国がこのような世界だったら・・・という考えがふと沸くようでは、私の厭世気分も相当なものだと、あらためて感じた。
何のために生き、何のために死すか、天国はどんなところだったら死を許容できるのか。 世界でも際立って宗教色の少ないこの国で、みんなはどう考えているのだろうか。 興味が無いわけでもない・・・。
まだ春の山菜行は、タケノコ・ミズが目標値に達していない。 その間生きていたら「生き天国」(生き地獄という言葉があるのに何で無いか)を味わうチャンスが、今年まだ数回はあるだろう。
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