小説「ヒーズールの夜明け」に登場する村・・・ そのむらおさの独り言?!
山菜採り日記の中でタケノコが時折登場するのだが、昨日採ってきたのはナシロダケだと思う。 日本に竹は150種類もあるそうで、タケノコも同じ数だけあることになる。 さすがのわしも竹に関しては、山菜の先生から教わった通りに理解してるだけで、採るタケノコに関しては、ササダケ・ナシロダケ・ネマガリダケ・モウソウダケくらいにしか分類できない。 だから、先生の言うことが正しいのかどうか、疑念が無いとは言いきれないのだ。
早い時期に採るササダケは、細いがダシが良く出るので、味噌汁の具に最高だ。 ナシロダケやネマガリダケは、太さと形状以外違いが分からず、茹でたり焼いたり煮たりと、いろいろな調理法で堪能している。
昨日の写真の中央にある皮付きのタケノコは、よく見ると切れ目を入れてあるのがわかると思う。 皮をむきやすくするためだ。 当たり前かもしれないが、この皮は「左前」と「右前」を交互に繰り返している。 だからむき難いのだが、幼少の時に身を守るための自然植物の知恵だと考えると、凄くないだろうか。 そんなことを考えるわしの馬鹿さが凄いと、言われるかもしれないな。
どうして皮が交互なのか調べても、答えには行き着くことができなかった。 だが、代わりにおもしろい記事を見つけることが出来たのである。
SBC信越放送のイベントというところに、長野県学校科学教育奨励基金について書かれていて、2002年に松尾小学校の4年生が「笹の葉」の効用?について研究している。 おにぎりを笹とラップとアルミホイルで包んだ場合の比較をしていて、のりでまき笹でくるんだおにぎりが一番日持ちをしたと結論付けた。 笹には調湿機能(湿度を調整)があるとのこと。 殺菌効果もあるかもしれない。
そういえばちまきも笹でくるんでいるし、昔の人の知恵だったんだろうなと感慨深かった。 笹がラップやアルミホイルにとってかわられたのは、コストや保存性だろうと思うが、笹を見直すのもエコの一つかなとふと思った。 また、こういったイベントが子供の理科嫌いを無くし、「何故?」の心を培うことは間違いないだろう。
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早い時期に採るササダケは、細いがダシが良く出るので、味噌汁の具に最高だ。 ナシロダケやネマガリダケは、太さと形状以外違いが分からず、茹でたり焼いたり煮たりと、いろいろな調理法で堪能している。
昨日の写真の中央にある皮付きのタケノコは、よく見ると切れ目を入れてあるのがわかると思う。 皮をむきやすくするためだ。 当たり前かもしれないが、この皮は「左前」と「右前」を交互に繰り返している。 だからむき難いのだが、幼少の時に身を守るための自然植物の知恵だと考えると、凄くないだろうか。 そんなことを考えるわしの馬鹿さが凄いと、言われるかもしれないな。
どうして皮が交互なのか調べても、答えには行き着くことができなかった。 だが、代わりにおもしろい記事を見つけることが出来たのである。
SBC信越放送のイベントというところに、長野県学校科学教育奨励基金について書かれていて、2002年に松尾小学校の4年生が「笹の葉」の効用?について研究している。 おにぎりを笹とラップとアルミホイルで包んだ場合の比較をしていて、のりでまき笹でくるんだおにぎりが一番日持ちをしたと結論付けた。 笹には調湿機能(湿度を調整)があるとのこと。 殺菌効果もあるかもしれない。
そういえばちまきも笹でくるんでいるし、昔の人の知恵だったんだろうなと感慨深かった。 笹がラップやアルミホイルにとってかわられたのは、コストや保存性だろうと思うが、笹を見直すのもエコの一つかなとふと思った。 また、こういったイベントが子供の理科嫌いを無くし、「何故?」の心を培うことは間違いないだろう。
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先週は気の滅入ることがあったり、災害への想いでどうにも気分が晴れなかったので、それではと2週間ぶりに山へ向かった。
上の写真は、その道中で見かけた花がとても気に入ったので、思わず車を停めて撮ったものだ。 薄紅色の花はこの辺ではガザの花と言い、タニウツギ(谷空木)のことである。 田植え花とも呼ばれるらしく、この花が咲く頃田植えも最盛期になる。 一緒に映っているのはご存知藤の花であり、コラボレーションが素敵だったので、紹介せずにはいられなかった。
山の収穫の狙い目はタケノコだったが、ほぼ思う通りの収量が得られた。 他にミズ・アイコ・フキをそこそこと、少しのワラビも採ってきた。 出かける前から妻に「タケノコ採ったら、今夜は豚汁ね」と伝えていたので、夕飯はそれをメインにアイコとミズのおひたし+アルファで堪能することができた。
山菜は、採ってきた後も仕事がある。 下の写真は、左からタケノコの皮、脱がされる前、裸にされたタケノコである。 ミズやアイコも皮をむいてからでないと、筋張っておいしくない。 と言う風に一手間かけなければいけないので、わしが帰ってから3人がかりで処理をした。 処理し切れなかった分は、明日母がやってくれるとのこと。 大いに助かる。
母は山菜を食べるのも、こしゃる(こしらえる)(後処理)のも大好きなようだ。
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中国やミャンマーの被災地向けに、募金が募られている。 メディアで惨状が伝えられ寄付行動が起これば、一粒の善意として思わずわずかながらも参加したくなる。 そうした中、いつも「これでいいのか」という疑問も付きまとっている。
大規模災害が起こると寄付をし、小規模なら話題にも上らぬことさえある。 日本における「激甚災害法」に対しても、わしは憲法に沿わない法律だとかねてから考えていた。 例えば1000人被災すれば可哀想で、50人ならそうでない、なんてことはあるはずもなく、被災した個人にとっての損害が同じなら規模の大小は関係ないだろう。
確かに目に見える被災者には手を延べたくなるが、世界には救いの手を待つ人々は数多くいる。 いろいろな災害を広く報じて、特定寄付金としてではなく一般寄付金としてストックし公平に分配すべきではなかろうか、というのがずっと持ち続けているわしの持論だ。
日本の納税制度もかなり難があり、法人税などはその法人の本拠地に支払われる。 見栄?からか東京に本社を置く企業が増えると、当然ながら東京の財政は潤っていく。 それをいくらかでも解消しようとしたのが「ふるさと納税」なのだが、提唱者である県知事の地元はさすがに実績が良いというが、わしの住む秋田県は実績0だと言う。 この制度が周知されていないのか、県出身者は冷たいのか、良く解らない。
そもそもこんな自由意志での税の納め方で、さらなる地方格差が生まれたらどうする気なのだろう。 お偉い人達の考えることは、愚民のわしには全く以って理解できないものだ。
まあそれはともかく、生死に関わる人々は無条件に救ってあげて欲しい。
大規模災害が起こると寄付をし、小規模なら話題にも上らぬことさえある。 日本における「激甚災害法」に対しても、わしは憲法に沿わない法律だとかねてから考えていた。 例えば1000人被災すれば可哀想で、50人ならそうでない、なんてことはあるはずもなく、被災した個人にとっての損害が同じなら規模の大小は関係ないだろう。
確かに目に見える被災者には手を延べたくなるが、世界には救いの手を待つ人々は数多くいる。 いろいろな災害を広く報じて、特定寄付金としてではなく一般寄付金としてストックし公平に分配すべきではなかろうか、というのがずっと持ち続けているわしの持論だ。
日本の納税制度もかなり難があり、法人税などはその法人の本拠地に支払われる。 見栄?からか東京に本社を置く企業が増えると、当然ながら東京の財政は潤っていく。 それをいくらかでも解消しようとしたのが「ふるさと納税」なのだが、提唱者である県知事の地元はさすがに実績が良いというが、わしの住む秋田県は実績0だと言う。 この制度が周知されていないのか、県出身者は冷たいのか、良く解らない。
そもそもこんな自由意志での税の納め方で、さらなる地方格差が生まれたらどうする気なのだろう。 お偉い人達の考えることは、愚民のわしには全く以って理解できないものだ。
まあそれはともかく、生死に関わる人々は無条件に救ってあげて欲しい。
中国の震災の報道は相変わらず続いているが、並行するように「日本は大丈夫か」という話題も持ち上がっている。 日本の救助隊もやはり被災地に入ってからいろいろあるようで、その能力を発揮できてるかが不安である。 うがった見方なのは承知で言うのだが、中国と日本のプロパガンダに利用されないことを祈る。 人道的活動も国家というものの前では、看板になりかねないからだ。 何はともあれ、できるだけのことをしてきてもらうしかないのだけれど。
わしの記憶に残る国内での最後の大規模地震は、2004年晩秋の中越地震だった。 この被災者の仮設住宅は、もう無くなっただろうか。 わしが知る限り、1年前まではあったと思う。 中国の現時点は震災直後生死の問題だが、被災者の苦労はまだまだ続き、のどもと過ぎれば他のニュースに埋もれてしまう。 仏作って魂入れずという諺もある。 派手でなくても息の長い支援が望まれる。
わしの記憶に残る国内での最後の大規模地震は、2004年晩秋の中越地震だった。 この被災者の仮設住宅は、もう無くなっただろうか。 わしが知る限り、1年前まではあったと思う。 中国の現時点は震災直後生死の問題だが、被災者の苦労はまだまだ続き、のどもと過ぎれば他のニュースに埋もれてしまう。 仏作って魂入れずという諺もある。 派手でなくても息の長い支援が望まれる。
本日昼過ぎ惨禍に見舞われている中国が、日本に対し人的支援(救援部隊)の要請をしてきたという。 外国の救援隊では日本をいの一番に指名したそうだ。 察するに、救援隊の能力の高さと国家間の政治情勢だろうか。 その部分では指名を喜ぶべきだろうが、日本の救援隊の行く道は険しいものになるだろう。 物理的な険しさではなく被災者の耐えられる時間との競争が、彼らを修羅の道へと導くと予想されるからだ。
現地は既にまる3日経過し、瓦礫の下での生存確率は15%程度まで下がり、被災者を発見したところで5人に1人さえ生きてはいないことになる。 心音や意識レベルと救出の難易度を即座に判断し、場合によっては見捨てなければならない局面もありそうだ。
現地の人々とどう連携し、作業をどう分担するのかが、効率良い救出へと繋がるのだが、発見のために行くのか、そこにいるが現地では救えない人を救出する為に行くのか、救出した人を医療で救うのか、勿論隊の編成時点で決まっているとは思うのだが。 とにかく頑張って欲しいと願うばかりだ。 そんな中でもきっと隊員達は、「人の道」とは何であるかを自分に問う場面にたくさん遭遇すると思う。
一方、被災地への支援の輪が広がっていることも、心和ませる報道である。 真に困っている人を助けるという気持ちには、国境も何も無いだろう。 中国はその道に一歩踏み出したのだが、ミャンマーでは今尚支援が届かない状況にあるらしい。
こういった被災地では2次災害が懸念されるのだが、この二つの国の対応が今後どういった結果をもたらし、「人の道」という視点で歴史にどう残るのだろうか。 わしごときが心配しても、しょうがないことではあるのだけれど。
現地は既にまる3日経過し、瓦礫の下での生存確率は15%程度まで下がり、被災者を発見したところで5人に1人さえ生きてはいないことになる。 心音や意識レベルと救出の難易度を即座に判断し、場合によっては見捨てなければならない局面もありそうだ。
現地の人々とどう連携し、作業をどう分担するのかが、効率良い救出へと繋がるのだが、発見のために行くのか、そこにいるが現地では救えない人を救出する為に行くのか、救出した人を医療で救うのか、勿論隊の編成時点で決まっているとは思うのだが。 とにかく頑張って欲しいと願うばかりだ。 そんな中でもきっと隊員達は、「人の道」とは何であるかを自分に問う場面にたくさん遭遇すると思う。
一方、被災地への支援の輪が広がっていることも、心和ませる報道である。 真に困っている人を助けるという気持ちには、国境も何も無いだろう。 中国はその道に一歩踏み出したのだが、ミャンマーでは今尚支援が届かない状況にあるらしい。
こういった被災地では2次災害が懸念されるのだが、この二つの国の対応が今後どういった結果をもたらし、「人の道」という視点で歴史にどう残るのだろうか。 わしごときが心配しても、しょうがないことではあるのだけれど。
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